通商国家としての国防

 

若尾龍彦

 

海外に出ると日本が客観的に見られる

 私が社命によりロサンゼルス駐在員として渡米したのは1981年春でした。ちょうど日本の対米輸出が絶好調のときで、アメリカの貿易赤字が政治問題化し、日米間には激しい貿易摩擦が火花を散らしていました。そして、アメリカから日本を眺めてみて驚かされることがたくさんありました。

 当時は、アメリカが初めて対外戦争に敗れたベトナム戦争の後遺症がまだ癒えず、国民の誇りは傷つき国全体の自信が揺らいでいました。レーガンが大統領に就任し、そのような現状を変えて強いアメリカを取り戻そうと動き始めていました。インフレが世界中に吹き荒れ、アメリカ庶民の生活は、住宅ローンが16−17%、クレジットカードや自動車ローンは21%という高金利でした。

そのような状況下で、日本の企業が自動車会社を先頭に次々とアメリカに進出し、終身雇用制、長期的利潤、QC(品質管理)、看板方式などを軸とする日本の経営手法が評価され、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というタイトルで日本を書いたハーバード大学のエズラ・F・ヴォーゲル教授の本がベストセラーとなりました。

その後、80年代後半に入ると日本資本による対米投資に拍車がかかり、ロスアンゼルスのアルコ・タワー、アメリカのランドマークともいえるニューヨークのロックフェラー・センターや北カリフォルニアのペブルビーチなどの大型不動産が次々と日本の企業に買収されアメリカ人の自尊心は大いに傷つけられました。

そして財政赤字と貿易赤字の双子の赤字にあえぐアメリカは危機感に包まれ、次々と輸入規制に動きました。スーパー301条が発動されて鉄鋼や自動車にとてつもない関税がかけられたり、対共産圏軍需品輸出禁止で東芝関連企業が叩かれたりしました。失業率は高く、デトロイトでは1ドル払って日本車をハンマーで叩き壊す人々の姿がテレビで放映されたりしていました。私は自動車部品製造販売会社の駐在員として赴任したのでなおさらですが、それまで日本国内にいてニュースを読んでいたのとアメリカで直に感じるのではニュースのインパクトが全然違うのです。物理的に海外に身を置いて外から日本を眺めると、こうも見方・感じ方が違うものかと驚きました。

 

自由貿易の保障こそ日本の防衛

1986年1230日、中曽根内閣は87年度政府予算原案を決定、初めて日本の防衛費がGNP(国民総生産)の1%を突破するという事態になり、日本国内では大議論が起きていました。平和憲法第9条との関連で軍国主義への警戒感がみなぎったのです。一方は「戦争は絶対に反対。少しでも軍国主義的な動きは絶対に止めなければ」と唱え、他方は「いざという時に国を守るにはそれなりの自衛力を持たねばならない。いつまでも日米安保条約に頼ってアメリカの傘の下にいたのでは真の独立国にはなりえない」と主張していました。これを海外から見ていると日本の平和論・国防論がとても狭い視野からのものに見えました。私なりに解釈すると日本の国防は次のようになります。

 

日本の国土をアメリカと比べると25分の1に過ぎず、しかもその80%は山岳地帯です。残りのわずか20%の土地にアメリカの約半分の人口がひしめきあって生きています。しかもこれといった天然資源はありません。資源といえば人材しかないのです。

このような日本が生きてゆくには貿易しかありません。第2次大戦後の廃墟から日本は貿易によって立ち直り経済を復興してきました。だから日本の国防の基本は「いかに自由貿易を続けてゆけるか」という点にあります。貿易を続けてゆくには平和が保たれ国際世論を味方につけなければなりません。したがって国際世論を味方につけるための費用はすべて日本にとっては国防費なのです。この意味では国連への拠出金も開発途上国への援助金もユニセフへの援助も海外青年協力隊の費用もすべて国防費です。日本にとっては自衛艦や戦闘機、戦車など直接の軍事費のみが国防費ではないのです。

言い換えると、貿易を続けるには世界が平和であることが絶対必要な条件です。世界にも例をみない不戦の平和憲法を維持し、世界の平和を目指すことが国益につながる日本国民は幸せです。

 

海外で日本人は日本の動く広告塔

また、戦前から多くの人々が海外に移住しましたが、戦後も海外へ移住した人や企業の海外展開に伴い駐在員として海外に住む日本人が急速に増加しました。ところで外国の人たちはどのようにして日本という国や日本人を認識するのでしょう。

国際都市・ロスアンゼルスには世界各国から様々な人々が集まって暮らしています。現在ロスアンゼルスで話されている言葉がいくつあるかご存知でしょうか? 以前、ロスアンゼルス郡裁判所で通訳を頼める言葉が100ヶ国語から105ヶ国語になったという新聞記事を読んだことがあります。裁判所のオフィシャルな通訳が105ヶ国語もあるのですから、ロスでは恐らく実際にはもっと多くの言語が話されているのだろうと容易に推測できます。それだけ多くの国々からの人々が集まって暮らしているロスアンゼルスは、アメリカでもアジア系の人たちが最も多いところです。一般のアメリカ人にとってアジア人は韓国人も中国人も日本人も全く見分けがつきません。

そのようなアメリカ人が、何かの折りに日本が話題になったときには、<自分の近所に住んでいるあの日本人(日系人)はなかなか真面目で挨拶もきちんとするし正直な働き者だ。だから日本にはあのような人たちが多く住んでいるのだろう>と好感を持ったり、<日本人に騙された。日本人はパールハーバーをだまし討ちにした奴らで油断も隙もないとんでもない国だ>と憎悪感を増幅させたりします。普段からそれほど世界の出来事にあまり気を配らないごく普通のアメリカ人にとって、なにか起きたときに日本を判断するのはこのように身近な人か自分の出会った体験が根拠になると思います。

ですから、私たち海外に住む日本人や日系人は“日本の動く広告塔”の役割を果たしているといえます。私たちの普段の行動や評判が、現地では直接日本への評価につながるのです。したがって日本の繁栄のためには、国内の人たちが頑張るのはもちろん、海外の日本人や日系人が頑張り日本や日本人の評判を高め国際世論を味方につけねばなりません。

 

海外からの視点を日本の国政に

 私たち在留邦人は、日本政府の対応の仕方によって、日々のビジネスや生活に直接・間接の影響を受けています。そのため、国内に住んでいたとき以上に日本の情勢や国際情勢に気を配って生活しています。つまり、私たちは海外にいながら祖国日本の動静に一喜一憂しているのです。海外に身を置くことにより、かえって日本が客観的に見えてくるのです。

当時、日本のメディアが伝えていた世界情勢は、必ずしもこちらで感じるものに合致していないように感じていました。ビジネスをしていて日々さまざまな事柄に直面していると、日本の人たちにもこのような思いを伝えたいと思うことがよくありました。「日本は外から見るとこう見えますよ」「外国人は日本をこう見ていますよ」ということを国政に反映できれば、日本にとっても役立つだろうと考えたのです。これが海外に住む日本人・日系人のもう一つの役割かもしれません。いつしか、このようなことを考える仲間が集まって勉強会を開くようになりました。

 

在外投票制度実現運動の始まり

1993年12月、私は日本語テレビ放送局を運営している友人のジャーナリスト、北岡和義氏が主催したティーチインに聴衆として参加しました。その場でパネラーに「海外在留邦人になぜ選挙ができないのか」という質問があり、在留邦人の選挙権についての問題を認識したのです。そのあと北岡氏から、在外投票制度を実現させる運動を行いたいのだが仲間に入らないかという誘いがあり、在留邦人や日系人の役割りについて前述のような考えを持っていた私は躊躇なく参加を決めました。ちょうど1991年に10年間勤めた米国子会社を退職し、ビジネス・コンサルタントとして独立して間もない頃のことです。

新年が明けると設立総会に向けての準備会が開かれ、ホテルの予約、拡大準備会参加の呼びかけ、会議進行の準備と忙しい日々が続きました。2月22日に行われた拡大準備会(動議により設立総会へ切り替え)には約150人が出席し、予想以上の人数となりました。私も友人たちや勉強会の仲間に呼びかけましたが、そのときに集まってくれた友人たちが最後まで活動を支える中核となってくれました。設立総会では会の名称が「海外在住者投票制度の実現をめざす会」(通称「めざす会」)と決められました。

 

その後、シドニー、ニューヨーク、バンコックと歩調を合わせ国会への請願を行うことが決議され署名運動が始まりました。その間の経緯については高瀬隼彦氏、署名運動については河合将介氏が詳細を記しています。また仲間の結束を図り広く活動の輪を広げる目的でニュースレターを発行することにしました。これについては、徳留絹枝、鷹巣雅英さんの強力な女性コンビが活躍してくれましたし、日本人子弟の塾を経営していた松本輝彦氏は快く事務所やコピー機を使わせてくれました。

 

運動を始めたもののほとんどの仲間は国会への働きかけは初めての経験です。国会への請願、議員とのコンタクトについては北岡氏の知識と人脈が大いに役立ちました。彼はまたことあるごとに節目節目で記者会見を設定し、我々の運動をマスコミを通じて国民にアピールすることに尽力してくれました。運動の期間を通じて常に強力にバックアップしてくれた元経済企画庁長官・寺澤芳男参議院議員や故石井紘基衆議院議員にコンタクトをつけてくれたのも彼でした。

 

悩みの草の根事務局長として

 私たちのこの運動は草の根の運動です。組織を動かすための一応の役職は作ったものの参加したり活動するのは個人の自由意志です。そこには強制する権威も経済的なベネフィットもありません。嫌になればいつでも辞められるのです。だからいかにしてみんなに運動への関心と情熱を持ち続けてもらうかが最大のポイントでした。そのために皆で食べ物を持ち寄ったり、作業中に雑談を盛り上げたり、常に集まりで楽しい雰囲気作りを心がけました。

 幸いなことに中核になってくれた人たちは、私が主催している勉強会や他のNPO活動の仲間でした。皆さんが同じような感性と志向を持ち、しかもそれぞれが卓越した情熱と行動力を持っていました。みんなが議論はしあっても、納得すれば小異を捨てて大同についてくれました。さまざまな作業を行うごとに片道30マイルや40マイルをものともせず駆けつけ、雑用をいやな顔ひとつせずにこなしてくれた高瀬夫人や村田明子さんなど遠隔地の人たちに私たちは大いに勇気づけられました。

 一番の悩みは運動を始めた当時の通信手段が電話とファックスだったことです。当初のニューヨーク、シドニー、バンコックから、マニラ、サンパウロ、パリ、ドイツ、イギリスと運動のネットワークが広がってゆくとその連絡が大変です。国際電話が今のように安くない時代でした。しかもほとんどの人が電話とファックスは兼用でしたから、一度で繋がることが少ないのです。ファックスは次々に自動的にかけられるように設定していましたが、何度かけても通じないので、一旦電話をかけて相手に途中で電話機を取らないように依頼し、ようやくファックスが送れたということも頻繁にありました。

いずれにしても、自分の仕事があるので事務処理は夜になります。そしてあちらこちらへと通信事務は山のようにあります。作業を終えて情報を送るのは深夜になることが多く、この当時の私のニックネームが“午前2時の男”でした。

もう一つの悩みは、他の地区が個人かごく少人数なのに対して、ロスアンゼルスは常に30人以上のアクティブ・メンバーで活動していたことです。そのため何を行うにしてもみんなに諮らなければなりません。もし事務局や一部の役員が強引に独断で行動したら、任意団体である我々の組織はあっという間に崩壊したに違いありません。「面倒で手間が掛かっても、みんなに相談し納得してもらってから動く」というのが鉄則でした。そのために、他の地区では思いついたら直ぐに実行してしまうものでも、こちらではせっかく数々のアディアが浮かびながら後塵を拝するというケースが数多くありました。私たちはそのたびごとに悔しい思いをしたこともたびたびでした。

 

国会議員へのアンケート調査

 署名運動が一段落して、国会議員のこの問題に対する意識を知るためアンケート調査をしようということになりました。これは国会議員に対するこの問題への自覚を促しアピールすることにもなります。私たちは、衆議院議員511名、参議院議員250名、合計761名にアンケート用紙を送りました。回答は、衆議院議員177通(34.6%)、参議院議員94通(38.6%)、合計で274通、回答率は36.0%となりました。

 国会議員には毎日のようにたくさんの問い合わせや陳情、アンケートなどが送られてきます。そのような状態で36%もの回答を得たことは、この問題に対する議員の関心の高さを示しています。回答のうち100通近くに議員の直接のコメントが書かれているのに感激しました。

 中曽根康弘元首相と江田五月衆議院議員は達筆のフェルトペンです。

塩川正十郎衆議院議員は「海外居住者をブロック別にして、アジア居住者に1議席、南北米州に1議席、欧州及びアフリカ1議席、インド・中東で1議席、計4議席を海外居住者議席としてこの地区から立候補される制度としたい」と海外選挙区にまで言及していて感激しました。

橋本龍太郎衆議院議員は「現在、制度の推進を含めて検討している」と現在進行形の回答でした。土井たか子衆議院議長は「現在、衆議院議長という立場にありますので、海外在住者投票制度について国会でも論議がされている最中でもあり、賛否を表明することは立場上好もしくないと思います。よろしくご理解の程お願いします」と述べ、議長という立場の中立性を表明されたのも納得でした。

自民党の三塚博衆議院議員のように「本件を取り扱っている与党政治改革協議会の責任者であるため、現在アンケートの回答は控えさせていただきますが、本件については真剣に検討しています」と政治的立場のコメントがついてきた人もいました。

「海外在住者投票制度の実現に賛成するか」との問いに対しては圧倒的に賛成が多く、地方選挙についての問いでは、国政参政権は国籍に、地方参政権は住民に帰属すべきという回答が多く見受けられました。

また、「あなたは超党派の海外在住者投票制度促進議員連盟(仮称)が設置された場合、この議員連盟に参加されますか?」という問いに対して、西岡武夫衆議院議員のように「このような国政の基本的課題は、議員連盟などではなく、各政党が正規の機関で正式にとりあげるべきと思っています」と本格的取り組みを示唆する人もいました。

この制度実現の賛否の問いに対し、自由民主党の相沢英之議員と高鳥修議員のお二人だけが反対で、ベテランの政治家だけに意外でした。このお二人の解答用紙にはコメントが付記されてなかったので理由はよくわかりません。

このアンケート調査では、結果的にほとんどの議員が海外在住者投票制度には前向きだということがわかりましたし、付記されたコメントの内容から一人一人が本当によく考えて回答している姿勢が感じられました。今まで新聞やテレビでしか知らない高名な政治家が、アンケートの問いに本当に真剣に考え回答しているのを読んで感動しました。この種のアンケートへの回答は、「政治家としていつどこで発表されるかわからない」という覚悟があるのでしょう。アメリカの大統領選挙でも、どの法案に対してどのような理由で賛成、または反対したかは後々まで追及されます。政治家はそれだけ自分の政治的判断に責任を負っているのだと思いました。

 

人権擁護委員会へ人権救済申し立て

 1995年、署名運動、国会への請願、国会議員へのアンケート調査、外務省・自治省への陳情と運動を進めてもなかなか捗らない状況に、「めざす会」ではいよいよ日本弁護士連合会(日弁連)人権擁護委員会に人権救済の申立をすることにしました。メンバーの一人で日本の法曹資格も持つ岩永裕二弁護士が推進役になりました。

 海外日系人大会に合わせて59日、手続きは岩永弁護士が代理人となり、私たちは書類を携えて日弁連に申立書を提出しました。申立は8ヶ所の連名で行い、記者会見を開きました。

 続いて、海外日系人大会への合間を縫って私たちは手分けし、できるだけ多くの関係者に会い陳情を行いました。

 

国会議事堂の赤絨毯を車つきのカバンで

 有志議員との懇談会、参議院議長への署名・請願書提出と国会の中を歩き回っていたときです。国会議事堂の地下を結ぶ赤絨毯の廊下を岩永弁護士と一緒に歩いていたときでした。彼はその当時では珍しかった車つきの小型かばんを曳いていました。赤絨毯と車つきのかばんを曳いているその姿が面白く、私はカメラを取り出しシャッターを押しました。フラッシュが光った途端に守衛が飛んできて今にもカメラを取り上げる勢いです。カート付きかばんはよくてカメラが駄目とは腑に落ちませんでしたが素直に謝りカメラは無事でした。忙しい陳情活動のなかで思い出に残る一コマです。

 

村山首相への直訴

 午後遅く、寺澤芳男議員、石井一議員の骨折りで、衆議院議長の公邸を訪問し土井たか子議長にお会いしました。議員会館前の道路から左へ折れ、だらだら坂を下ってゆくと左側に参議院議長公邸、右側に衆議院議長公邸が並んでいました。概観はまったくよく似て双子の建物のようでした。中には広い会見場があり、我々はそこで土井衆議院議長に会い署名を添えた請願書を提出しました。元々憲法学者の土井議長は私たちの運動に深い理解を示していました。会見の終わりに紹介者の石井議員が口添えをしてくれました。

「議長、こうして海外から皆さんが来ているのです。折角ですから総理に会えるように口添えしてくれませんか」

「私はメッセンジャー・ボーイではないからねえ」

「いえ、口添えをしていただければあとは自分たちが根回しをします」

このようなやり取りがあり、なんと翌日には首相官邸で村山富市首相に会うことが出来ました。いくら根回しをしても通常はとても無理な現職総理大臣との会見はこうして実現しました。

 

 首相官邸に入ると車寄せから玄関へと案内され広間に通されました。建物は古く近々立替の必要が検討されていると聞きましたが、なかなか風格のある建物に見えました。閣議室を見ることはできませんでしたが、広間には閣議室の模型が置いてあり、ここに首相が座るのだと椅子の配置まで示してありました。20分ほど待った頃でしょうか、「首相が来られます」との声で大股に村山首相が入ってこられました。ニコニコと気さくに歩み寄って一人一人と握手をしてくれます。大きな手で指が長く、テレビなどでお馴染みの長い一本の眉毛が間近で見ると想像以上に長かったのを覚えています。

 金井会長から「あんたが一番よく知っているのだからあなたから説明しなさい」と背中を押された私は、首相に向かって運動の趣旨と経緯、要望をかいつまんでお話しました。首相はいちいちうなずいて聞いてくれ、続いて皆さんが各地の事情なども補足説明をし、会見は30分くらいで終わりました。

 

 なんといっても一国の首相に会って握手をし、直にお話したのです。会見後はみんな多少の興奮を伴って玄関の石の階段のところに集まり記念写真を撮りました。みんなのポケットには首相の名刺が入っています。名刺は実に簡単で、縦に一行「内閣総理大臣 村山富市」とだけ書いてあります。住所も電話番号も何もありません。やはり首相は日本で一番有名な人なのだなあと変な感心をしました。首相のお土産は「青春とは、人生のある期間のことを言うのではなく、心の様相を言う」というサムエル・ウルマンの詩が毛筆で書かれた署名入りの色紙でした。これは今でも私の取っておきの記念品として大事にわが家に飾ってあります。

 

日弁連から政府・国会へ公職選挙法改正の要望書

 199651日、日弁連は1年間の調査研究の結果、会長名で公職選挙法の改正を政府・国会に対して要望する要望書を提出しました。内容はほぼ私たちの主張を全面的に取り入れ、あて先は衆参両院議長、内閣総理大臣、法務大臣、自治大臣、外務大臣の6人でした。人権救済申し立ての絶大な成果にわれながらびっくりしました。

 これらの動きに私たちは運動が着実に効果を上げ始めたのを感じました。これを受けて衆議院予算委員会では、倉田自治大臣、池田外務大臣、橋本総理が在外選挙制度の実現に前向きの答弁をしたし、メディアの人たちにも私たちの存在が認められ、情報をこちらから流すと積極的に取り上げてくれるようになったのです。

 

違憲訴訟の下準備

 この動きを加速させるため、いよいよ国を相手に違憲訴訟を行うことを決めました。1020日に第41回衆議院議員の総選挙が実施されることになり下準備に入りました。訴訟には具体的な損害の事実がないと訴えられないのだそうです。

 

 まずは具体的に選挙が出来ないことの確認です。今まで在留邦人は投票できないとわかっていたから、誰も実際に選挙をしようと試した人はいませんでした。

 

第一に各地の仲間に呼びかけて、日本を離れたときの最終居住地の選挙管理委員会へ投票用紙送付の依頼をしてもらいました。私の手元にも座間選挙管理委員会から「選挙人名簿に登録がないので投票用紙は送付できません」との手紙が届きました。他の仲間にも次々と同様の書類が届きましたが相対的に各選管の対応は丁寧でした。

第二に「めざす会」の5名が総領事館へ出向き、谷内正太郎総領事に投票用紙の配布を要望しました。普段から様々な行事でお互いに顔馴染みの総領事ですが、「わかりました。一存ではお答えできませんので本省へ問い合わせた上で回答します」との返事があり、やがて正式に文書が届きました。「在外公館は、公職選挙法上、投票用紙を入手し、配布する機関とはされていない」というのが回答でした。

第三は「めざす会」の仲間の一人が一時帰国、投票日の当日に浦和市内の投票所を訪れ投票実施を求めました。詳細は当人の中條氏が記述していますが、浦和の選挙管理委員会は「選挙人名簿に登録されていない」との理由で投票を拒否しました。

 

これで、1)日本の選管から投票用紙が入手できない、2)在外公館を通じても投票用紙は入手できない、3)日本の投票所へ投票しにいっても投票できない、とあらゆる投票手段が拒否されている事実が確認されたのです。これで実際に投票意思があるにもかかわらず投票できないという損害賠償訴訟への下準備が整ったわけです。

 

東京地裁への違憲提訴

 訴訟に当たっては、日弁連の意見書を起草した喜田村洋一弁護士をはじめとする弁護士が、無報酬のボランティアで弁護団を結成してくれることになりました。1120日、東京弁護士会館のロビーで喜田村弁護士と落ち合った私たちは時刻がきて建物を出ました。弁護士会館の横の道路を進んで角を右に廻れば東京地裁の入り口に辿りつきます。メディアの世話役の方が私たちを途中で止め、「私が手を振ったら歩いて角を曲がってください」といって消えました。

しばらくして合図がありました。私たちは喜田村弁護団長を中心に一団となって歩き始めました。角を廻って驚きました。向こうの東京地裁の前には三脚を立てたり、脚立を立てたりしてテレビカメラや写真のカメラの放列が20も30も並んでいます。いままで何度か記者会見は経験しましたがこれほどのカメラの放列は初めてでした。思わず武者震いが湧きました。みんな頭を上げ胸を張って進みました。カメラの前を通り過ぎ、東京地裁の建物の中に入り、エレベーターで訴訟受け付けの窓口へ向かいます。訴状の提出は喜田村弁護士が行い手続きは事務的に終わりました。

その後、弁護士会館の会議室を借りて記者会見を行いました。金井会長が声明を読み上げ各地の代表から各地の事情やコメントが披露されました。この訴訟の原告団は、計8カ国53名となりました。私は事務局長として今までの経緯、原告団の内訳などを説明しました。記者からは盛んに質問が出され活発な記者会見でした。

 

第1回口頭弁論での意見陳述

 1997327日、東京地裁で第1回目の口頭弁論が行われました。喜田村弁護団長からは、第1回目だから原告から誰か意見陳述に出頭するのが望ましいとの連絡がありました。事務局長という立場上、様々な情報が集まっているので私が出頭することになりました。ちょうど出張で日本にいた中條氏が傍聴人として付き添ってくれました。

 法廷はこじんまりとして傍聴席にもそれほどの人数はいませんでした。しかし、一段と高い裁判官席に裁判長を真ん中に3人の裁判官が座り、証人台に立った私は緊張しました。宣誓をして意見陳述を始めると、今までの運動の経緯が思い起こされ緊張は熱意に変り、思いを込めて日頃の意見を述べました。裁判長は私の意見陳述にいちいち深くうなづいて聞いてくれました。喜田村弁護士の話では、あのように熱心に裁判長がうなずいて聞いてくれることは稀なのだそうです。私は裁判の前途に希望を持ちました。

 

国会の経過、「在外投票制度」一部、実現

 415日には新進党・太陽党の公職選挙法改正案が国会へ提出されました。続いて615日には自民・社民・さきがけ3党の公職選挙法改正案が国会へ提出されました。618日に第140回通常国会は閉幕され公職選挙法改正案は継続審議となりましたが、いよいよ国会が法改正に向かって動き出したのです。

 ここがヤマ場とあって私たちも盛り上がり、運動の経緯や私たちの主張、各国の事情を盛り込んだ小冊子を作成して国会議員やマスコミ関係者に発送しました。この小冊子はよくできていて、今でもよい資料として保存されています。

 この年の124日に衆議院の公職選挙法改正特別委員会に参考人として意見陳述を行うため代表を一名送って欲しいとの連絡が届きました。金井会長に出頭してもらうことになりました。後日ビデオテープが送られてきましたが、金井会長の堂々とした意見陳述は委員の代議士たちの胸を打ち、ここで改正内容が方向付けられたように思います。

 年が明けて19983月、公職選挙法改正案の審議も大詰めを迎えようとしていました。ニューヨークの竹永氏の提唱で、衆議院公職選挙法改正調査特別委員会の委員に「もう一押し運動」の手紙・葉書作戦を実施しました。アメリカの市民運動ではよく行う手段ですが、アメリカにいる竹永さんらしい発想です。43日には公職選挙法改正調査特別委員会で法案を一部修正のうえ全会一致で可決、7日に衆議院本会議にて「公職選挙法の一部を改正する法案」が可決、成立しました。

 

参議院・地方行政・警察委員会にて参考人意見陳述

 衆議院で可決された法案は参議院に廻され審議に入りました。416日に参議院の委員会でも参考人の意見陳述が行われることになり、ちょうど出張の予定があった中條石氏に出頭してもらうことにしました。中條氏は実際に浦和市で投票所へ行ったこともありうってつけの人でした。

その模様については、中條氏本人が別項で述べています。

 

1998年4月24日、ついに私たちの悲願だった在外投票制度が実現しました。この日、午前10時45分、参議院本会議にて法案が可決成立したのです。この動きは逐一、海外有権者ネットワークに流していたので各地の仲間は今か今かと固唾を呑んで待っていた瞬間でした。

当時の記録を見るとこの嬉しい知らせは下記のようになっています。

 

「在外投票制度」成立のお知らせ

 日本時間、4月24日、午前10時45分、「公職選挙法の一部を改正する法案」(在外投票法案)は無事に参議院の本会議で可決成立しました。皆さんの苦労がやっと実りました。ロサンゼルスでは、明日午後4時半に記者会見を行い声明を発表する予定です。ネットワークの各地でも可能なところは記者会見をしてください。また、午後8時を期して皆さんと一緒に乾杯をしませんか。題して「世界に懸かった虹の乾杯」です。 在外投票実現にカンパーイ!

この後、お世話になった議員の方やマスコミの皆さんにお礼状を出す予定です。    

 

世界の標準時間、グリニッチ・タイムはロンドンを基準にしています。世界各地で同時刻に乾杯すれば、地球全体では24時間、異なった時間に乾杯が地球を巡ります。ちょうど野球場で観客の誰かが始めたウェーブが球場を波のように巡るように。だから「世界に懸かった虹の乾杯」と名付けました。私たちの喜びが爆発した瞬間でした。

早速、イギリスから、ドイツから、フランス、シンガポール、ブラジル、ニューヨーク、サンフランシスコ、大阪、東京、ロスアンゼルスからと次々とお祝いのメールが舞い込みました。その数は一日にして32通となりました。皆さんの喜びと共にインターネットの威力を思い知らされた一瞬でもありました。

 

大洋を越えた市民運動をふり返って

思えば長い道のりでした。1993年の暮れに、ロスアンゼルスに「海外在住者投票制度の実現をめざす会」が発足して4年4か月、当初は会う人ごとに「海外から投票させろといっても無理だよ」「政府が在留邦人のいうことなど聞くはずがない」「あなたたちも大変だねえ」と否定的な反応ばかりでした。

しかし世の中の変化はごく少数の人の強烈な思いに動かされることは歴史が証明しています。別表の活動記録をご覧ください。私たちは「思い」だけで運動したのではありません。世界の仲間をネットワークで結び、各地で署名運動を行い、それを携えて衆参両院に請願を行い、数多くの記者会見をこなしながら外務省や自治省(現総務省)に陳情を繰り返してきました。国会議員へのアンケート調査を実施し、多くの議員から自筆のコメントをもらいました。自分たちで法律上の根拠を確認するために勉強会を行ったり、日系スーパー・マーケットで署名集めを行いました。そうした中から本当に頼りになるメンバーが30余名に絞られました。構成は、弁護士、会計士、作家やメディア関係者、会社の経営者から主婦、学生まで多士済々です。

さらに人権擁護委員会に人権救済の申し立てを行い、国を相手に違憲訴訟も行いました。その結果、このように在外選挙制度を実現する公職選挙法の改正法案が可決、成立したのです。

 

では、何がこの運動の推進力になったのでしょうか。

 

強烈な思いが変化を起こす

第一に、ロスアンゼルスでは30余名に及ぶメンバーが各階層から集まり、それぞれの専門分野で力を発揮したことです。国会のシステムや議員への人的ネットワークに長けた人、日米両国の弁護士資格を持ち日本の法律に通じた人、日系社会の指導的立場で懐の深い包容力でみんなをまとめリーダーシップを発揮した人、コンピューターに長けオフィスや事務機器を気持ちよく使わせてくれた人、昼夜を問わず事務局を支えてくれた人、数多くのファンド・レイジングや署名運動に進んで身を挺してくれた人たちです。この人達の情熱と献身的な活動が世界のネットワークを機能させこの運動を成功に導いたといってよいでしょう。

 

第二には、メディアの力を最大限に引き出したことです。私たちは節目節目に積極的に記者会見を行い、メディアを通じて自分たちの主張と海外在留邦人の果たす役割りや憲法上の問題点をアピールしてきました。国会議員にとって最大の関心は世論です。署名運動も集会も、それがメディアに取り上げられ報道されてこそ世論を動かす力となり得ます。関心を持ってくれたメディアの人達には積極的に普段から情報を送り続けました。

 

第三は、世界を結ぶネットワークを築いたことです。各地の組織の人数が問題ではありません。「多くの国にまたがって世界中の在留邦人がこの運動にかかわっている」という構図がメディアの関心を呼ぶのです。しかし、海外ネットワークと密接に連絡を取りつつ運動を進めるには大変な労力を要します。何十ヶ所もの人達に短時間でファックスを送るというのは大変な作業です。というのも多くの人達が電話とファックスは兼用であり一度で通じることはありません。先に電話をしてファックスモードに切り替えてもらったり、何度も何度も送り直したりしなければなりませんでした。運動も後半になって、電子メールが登場したのはありがたいことでした。海外有権者ネットワークでは、電子メールが使える人は限りがありましたがメールが活用できるようになってからは大いに事務効率が上がりました。

 

ロスアンゼルスは日本に近く、新聞・テレビやラジオまで日本のホットなニュースが時差ゼロで飛び込んできます。飛行機便も一日に何便もあり航空運賃も安い。このようなインフラが整っていることが多くの多彩なメンバーを擁していることとあいまって、ロスアンゼルスが海外ネットワークの事務局として機能することを可能にしました。それだけに法案成立の喜びはひとしお強かったように思います。

 

いま、運動を振り返って再度強く思います。「世の中の変化はごく少数の人の強烈な思いから起きる」ということを。その強烈な思い、拘りが正当なものであれば、必ず多くの共感となって広がり世の中を動かすことができる。批判だけでは何も起こらない。現状を変えるには何が自分に出来るか、どんな小さなことでも一歩を踏み出すことが大事だということを、この運動に身を挺した多くの人達は身をもって体験しました。そして「一人一人が一歩を踏み出すこと」こそが民主主義の原点であると思います。

 

海外在住者投票制度の実現をめざす会

及び違憲訴訟原告団 事務局長

若尾龍彦